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7306戦時下の恋文

戦時下の恋文
原爆で消えた父を探して

常石登志子:著
四六判上製  264ページ 本体1700円+税
ISBN978-4-86261-180-2 C0095
発行:2023年8月

★ご注文について

9784862611802戦時下の恋文

内容

私の人生は、一生かけてお父ちゃまを愛する人生だった。

29歳の若さで広島で被爆死したジャーナリストの父と、25歳から97歳まで寡婦を通した母。
残されたのは、戦時下にいきいきと綴られたふたりの恋文だった。
戦後生まれの著者が「予め失われた父」を探す心の旅の記録。

*  *  *

母が朱塗りの文箱に保管していたのは、ふたりの婚約時代から約二年間分の往復書簡。
生まれたときから顔も知らない父の肉筆がそこに残っていた。
綴られていたのは、中国新聞社主の長男としてジャーナリズムの道を歩んでいた父の軍隊での生活や、戦後はどこか感情が乏しかった母の溌剌とした戦前の様子。
書簡を通して父を知る旅を始めたはずが、図らずも母を発見することになる。
最晩年、「お母ちゃまの人生はどんな人生だったの?」と尋ねると、母ははっきりと応えた。
「私の人生は・・・、私の人生は、一生かけてお父ちゃまを愛する人生だった」

目次

はじめに

【第一部】
第一章 牛込の家
第二章 獲たる哉 思うがままの 月と女
第三章 大空襲と原爆
第四章 宍戸大尉との出会い
第五章 戦時下のジャーナリズム
第六章 八月三日、百合子が突然、面会に

【第二部】
往復書簡

おわりに

「はじめに」より

 今年も8月6日がやってきます。原爆記念日(8月6日)は、戦後七八年たった今日でも、沖縄慰霊の日(6月23日)、終戦記念日(8月15日)とともに忘れてはならない日です。
 その日、爆心地から600mの当時陸軍第五聯隊師団司令部で、朝礼に参列している多くの人々と共に、私の父は被爆死しました。正確に言えば、行方不明です。29歳でした。
 昭和20(1945)年になり、日本各地の都市が空襲に見舞われるようになりましたが、軍都広島はまだ大きな空襲を受けていませんでした。七月になると、戦局が愈々悪化してきたため、父は家族(父母、妻、長女、長男)を広島市平野町の自宅から広島市郊外の安芸郡府中町(爆心地から約5㎞)の小さい家へ、急遽、疎開させました。
 半月も経たないうちに、「その日」はやって来ました。平野町の実家は、焼失したようですが、疎開したお陰で家族5人は無事でした。それでも、移り住んだ家の二階の窓ガラスは爆風で粉々に割れ、天井は吹き上がったとのことです。
 8月6日に帰宅する予定だった父は戻らず、新型爆弾が落とされたという噂が流れました。翌7日から9日まで、身重の母は、父を探して、師団司令部のみならず、広島駅、白島、牛田へと、市内各地を歩き回りました。母と母の胎内にいた私は後に、入市被爆者に認定されました。3日間の捜索もむなしく、遺骨も、遺品も見つかりませんでした。
 その時、母は25歳、以来97歳で亡くなるまで、72年間寡婦を通しました。
(中略)
 私は今年、77歳になります。生まれた時から父親の顔を知りませんが、祖父母が居てくれたお陰で寂しい思いもあまりせず育ったので、父がどんな人だったのだろうかと深く考えることもありませんでした。が、この歳になって、世界中が、戦争を止めるための叡智を求められているこの時、先の戦争の当事者であり被害者でもあった見知らぬ父と話をしてみたいという気持ちが強く湧きました。
 父が遺したものは、本ばかりでしたが、母が朱塗りの文箱に保管していたふたりの婚約時代からおよそ2年間の往復書簡に、父の肉筆が残っていることに思い至りました。
 これらの手紙に語ってもらいたいと思ったことは、次の三点です。
  一、父が母をどのように想っていたか。結婚について。
  二、父の軍隊での生活から見える戦争観。世界観。
  三、父がジャーナリズムの環境にいたことから、この時代の報道について。
 その他に、当時の父母がまだ知らなかった原爆について私見を述べたいと思います。
 両親の恋文を読む心情というものは、面映ゆいものでした。読むのをやめたいという気持になることもしばしばでした。しかし、この昭和13年から20年は、日中戦争から敗戦まで、日本が戦時下に置かれた時代の真っただ中、その下での恋なのです。あの時代の人々の生活や考え方、社会の雰囲気などを知ることで、何かしら今日の私たちにとって得るものがあればと思いなおし、私は、父を探しに出ることにしました。

    

著者プロフィール

■著・常石 登志子(つねいし としこ)〔旧姓 山本〕
1946年1月、広島に生まれる。広島大学教育学部付属中・高等学校を経て、1968年慶應義塾大学フランス文学科卒。在学中は「三田新聞学会」に所属し文芸面を担当。1969–70年、『安藝文学』同人。1976年以降は公文式算数・数学教室等で小・中・高校生の指導にあたる。2001年より、リサイクルで海外支援するNPO法人「WE21ジャパン・さかえ」でボランティア活動。2011年の東日本大震災以降、「ぶんぶんトークの会」の立ち上げに関わり、学習会、講演会、自主上映会等を主催し、地域に脱原発を拡げる活動に尽力。2015年より「安保法制廃止・憲法を活かそう オール栄区の会」にて、日本国憲法を守るための市民運動に参加している。
父は中国新聞社主の長男・山本利。報道部将校として広島で被爆死。

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